価値を創造できる子を育てる。
それしかない。
決められたことをルーティンする仕事は自動化されていく。
インフラの維持はごく少数の人間によってできるようになっていくだろう。
自動化できない、人間にしかできない創造をする者だけが価値を提供し、等価の金銭を得ることができる。
そんな時代が訪れようとしている。
『価値を創造する』
これがいかに難しいことか。
日本の義務教育では、あまり創造性に重きをおかない。
ネガティブな発想にもフタをする。
そこに創造の源泉がある可能性も考えずに軌道修正する。
ネガティブな感情からポジティブな感情へ移行する過程に重きをおかない。
みんなポジティブでなければいけない。
つまり、個性はいらない。
未だに日本の義務教育は『右にならえ』を良しとしている。
日本の教育はどちらかと言えば、決められたタスクをこなすことに重きを置いている。
すでにある答えを導き出すために方法を覚え、言語や数式を使いそれを求めていく。
決められた方法で、すでにある答えにたどり着けたら高得点を得られる。
これすらもできない人間が、新しいものを生み出すことなどできないという発想だろう。
確かにそういった下地は重要だ。
基本を学ぶことに反対はしない。
ただ日本の教育方法は目的を決めてから知識や技術を学ぶのではなく、広い範囲の基礎を学んでからゴールを決めていく方法だ。
通常、中学生までは義務教育の中で基礎的な知識を学んでいく。
ただ、ほとんどの生徒は意欲的にそれをこなすどころか、嫌悪感を持つ。
簡単に言えば、みんな勉強がキライだ。
もちろんなかには、目的をもって、勉学に励むものもいるだろう。
でも、ほとんどの者は基礎的な知識の習得に嫌気がさす。
そもそも基本の習得とは、そういうものかもしれないが・・・。
ただ、そのせいでゴールが見えなくなってくる者もいることを無視できない。
世代が分かってしまうが、『猫も杓子も勉強すれば明るい未来が約束される』と言われた時代があった。
それを真に受けた大人たちは、自分の子供にとにかく勉強をさせた。
大金を払って、塾にもたくさん行かせた。
その子たちは、大人たちに設定された目標の大学や企業に入ることができた。
当然、挫折した子供も大勢いた。
ただ、どれだけの子供たちがその先で何かを創造できたのか?
いや、目標を達成した努力や能力は素晴らしいものだ。
もちろん評価に値する。
しかし、たどり着いたその先に何を見たのか?
思考停止した大人たちが、子供に設定した目標の先には何があったのか?
その子たちは今、日本を支え、世界をけん引するようなことを成しているのだろうか?
それだけの世界の問題を解決しているのか?
いや、無いだろう。
それはなぜか?
それまで努力してきた目的が自分自身のためだけだったからだ。
親は、世界平和のために子供を育てない。
その子自身が幸せになれるように、教育を施し、お金をかけ、育てる。
そのことは間違いじゃないし、むしろ、立派なことだ。
それが、できない親もたくさんいる。
ただ、この発想からは自分のことしか考えない子供しか育たない。
自分のことしか考えないから、だれかのためになることを考えられない。
誰かのためになることを考えられないから、価値を提供できない。
つまり、お金を稼げない。
『価値の提供=お金を得る』だからだ。
自分の生活を安定させるために、たくさんの給料を得ることは大切だ。
しかし、それだけが目的になってしまうと、価値の創造はできない。
既存のサービスや商品を提供するための仕事は、こなせるかもしれない。
でも、それが今の日本に一番足りていないことなんじゃないかと思う。
社会インフラをキープするために働く人も必要だ。
ただ、こういった仕事は自動化されて給料が安くなっていく。
それどころか、あまり人を必要しなくなり、従事できる人間が減っていくだろう。
同時に新しいものを創造する人間が必要だ。
日本の教育機関のせいだけにすることはできない。
子供に責任を肩代わりさせるわけにもいかない。
死にゆく大人たちを恨んでも仕方ない。
いま、何かをできるのはこの偏った教育を受けてきてしまった者たちだ。
価値は他者が決める
当たり前のことだが、価値は他者が決める。
現代社会においてはほとんどの場合、商品の価格やサービスの価格は提供者が決める。
(セリやオークションは別だが・・・。)
しかし、その商品を買うかサービスを受けるかを決めるのは他者だ。
つまり、提供者以外の人間ということだ。
金額設定に等価がなければ、他者は商品を買うこともサービスを受けることもない。
選択権が他者にある場合、それは他者がある程度金額を決めていることになる。
しかし、この商品もサービスもありふれている現代、その価値は下がり、金銭は一か所に溜まりつつある。
最低限の生活を維持するための商品やサービスにはお金を払わざるを得ないが、そのほかの娯楽にかける金額にはシビアになっている。
本気で、他者(消費者)のメリットを考えないと対価を得ることが難しくなっているし、提供者の競争が激しく、対価を得にくくなっている。
そして、最近では無料もしくは定額(低額)で楽しめるサービスもあふれている。
そういった競合する企業は他者(消費者、ユーザー)を取り込むことに躍起になっている。
通信業者も決済業者もジャンルを上げたらきりがないが、コスト度返しでプラットフォームに引き込もうとしている。
目先の対価よりもユーザーを掌握し、逃がさないような取り組みを第一に考えている。
そもそも経済活動は人が居てこそ成り立つものであり、目先の利益を重要視するあまり、消費者、ユーザーを逃してしまうことの方が恐ろしいからだ。
こうなってくると、お金は目的ではなく、本当の意味で手段や道具になってくる。
目的は消費者、ユーザーをつなぎとめておくことだからだ。
これは突き詰めれば、国が国民を増やす考えにも似ている。
新しいインフラの創造
水道、電気、インターネット、食の流通や衣服、生活に必要なインフラは整っている日本。
これらは一度仕組みができているので、あとはマイナーチェンジでも、すぐに困ることは無い。
こういったインフラを維持する企業に勤めて対価を貰うことも素晴らしい仕事だ。
しかし、先にも述べたように、すべての人間がこれらの仕事につけるわけでは無くなってくる。
日本の人口も減少しているので、収支が合うのかもしれないが、やはり、何か新しい価値を創造する必要はあると思う。
人はただ、生きて死ぬだけでは事足りないと感じるからだ。
エンターテインメントがこれほど隆盛してきたのにはそういった理由もあろう。
人は生を楽しむためのものにまで昇華しつつある。
生きていくのは簡単なことではないが、楽しみがあることも否めない。
その限られた生の中で、より多くの喜びや楽しみを得たいと思うのは当然だ。
生きるためのインフラが整いつつある現在。
災害への対策なども重要である。
それらを克服して、後世に残したいものは決して苦しい未来では無いはずだ。
ただ、生きれることのありがたさも噛みしめなくてはいけない。
そして、できる限り幸せを感じられるようなものも提供できれば、なおのこと人は幸せを感じながら生きていけるのではないか?
それが、動画などのエンターテインメントであり、ゲームかもしれない。
音楽でもいいし、マンガでもいい。
美術品でも旅行でもいい。
そういった、より生を謳歌できるものを創造し、提供し、他者から価値を認められ、対価を得られる人間がより必要とされていくのではないだろうか?
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