いま現在、あるがままを満たされていると感じることが正しいのならば、自分は今までまったく逆のことをしてきた。
「足りない足りない」と考え、他人の持っているものをうらやみ、いま持っているものにはありがたみを感じない。
こういったハングリー精神のようなものが、絶対的な真理として教えられてきた。
しかし、それは誰かにとって都合がいいからだった。
- 勉強やスポーツを頑張れば、親がよろこぶ。
- 仕事を頑張れば、上司がよろこぶ。
- お金を稼げば、家族がよろこぶ。
そうすることで、自分も生きやすくなっていた。
なるべく、まわりの期待に応えていれば、陰口をたたかれることもなく、怒られることもなく、そのかわりとして、自分の人生が好きに歩めるとおもっていたからだった。
じぶんの時間がもてることや、好きなことができる時間、ゆっくりと休める時間だ。
しかし、現実はちがった。
誰かをよろこばせたいと思うことは、大切なことだ。
ただ、あいてはそのことになれてしまうと、おなじことでは喜んでくれなくなる。
すると、自分を消耗しつづけなくては、おなじように喜んでもらえなくなってしまう。
いづれ自分という人間はすりきれて、限界をむかえてしまう。
なにごともバランスが大切なのだ。
能力があればあるほど、よりおおくの期待に応えられる。
それでも、いつかは限界がやってくる。
そのとき、あまりにも多くの自分の人生を犠牲にしてきた人間は、よりおおくの絶望を感じることだろう。
自分の人生を犠牲にしてまで、だれかのために生きる必要はない。
結局、限界がおとずれたときにすべてを不幸にしてしまうからだ。
承認欲求などの我をすて、自分の与えられた完璧な命を最大限に受け入れればいいだけのことだったのだ。
それが、あまりにも恵まれすぎていて、あたえることだけに重きをおいてしまっていた。
歳を重ね、心身ともに衰えてくると、自分を大切にする重要性が高まってくる。
当然、衰えてくるのだから、終わりのない他人の期待にこたえていては、早々に消耗していくだけだ。
自己研鑽。
がんばるということは、現在のままではいけないと思い、いまの自分を否定しつづけることだ。
結果にたいしてまだ足りないと考え、さらに、自己否定をくりかえし、努力をし続けることだ。
ただ、それは、大きな力をもたらすかもしれないが、いつまでも、幸せを感じることができなくなるというもろ刃の剣でもある。
いつ満足できるのか?だれかが認めてくれたときなのか?
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