自分の感情が自分を壊す
自分の感情が自分を壊すことは、珍しいことではありません。
自分の感情に蓋をしてがんばっていると、いつか押し殺していた感情が自分自身を傷つけてしまいます。
たしかに、生きていくために仕事をしてお金を稼がなくてはなりません。
そのためには、やりたくないことでも我慢しなければならないこともあるでしょう。
しかし、物事には、陰陽、光と影、表と裏のように、ムリをして成果を上げた分だけ反動が生まれます。
人によっては、本当に命を落としてしまう人もいるぐらいです。
そもそも、自分の命を削ってまでやる仕事にどれほどの意味があるのでしょうか?
いくらお金があっても、家族は傷ついて毎日暗い顔をしているあなたを見て、幸せだと感じているのでしょうか?
あなたは、守るべき家族のために自分の身を犠牲にして生きています。
ただ、そんなにがんばっても家族は、それほど感謝してくれなかったりもします。
暗い顔をしているあなたと過ごしても楽しくないので、家族のなかでも距離を置かれていきます。
家族のために無理をしてがんばってきたはずなのに、結局、ひとり孤立してしまうのです。
いったい、何が悪かったのでしょうか?
ただ、一つ言えることは、あなたが仕事のせいで怒っていたり、不幸そうにしているからです。
それをあなたが、「家族のせいでこんなにつらい仕事をしなくてはいけないんだ」と思っていることです。
「家族」イコール「つらいもの」という公式になってしまっているのです。
「家族を守るべき」という概念はとても大切なものです。
しかし、そこに見返りを求めてしまうと、それの見返りが思ったほど得られなかったときに心身に大きなダメージを受けてしまいます。
嫌な仕事を我慢してやっても、得られるのはわずかなお金だけです。
さらに、そのわずかなお金を家族のために使っても得られるものは感謝ではなく、侮蔑の眼差しです。
この負のサイクルに救いはあるのでしょうか?
これから、そのあるかどうかわからない解決方法と救いを探っていきましょう。
感情労働とは?
肉体労働、頭脳労働にくわえ、最近は「感情労働」などと呼ばれる概念まで生まれてきました。
工業化、機械化、AIによる自動化などにより、人間の労働は楽になってきたように思えます。
しかし、同時に「人間にしかできないこと」が明確になり、求められる仕事の質も高くなっています。
どんな状況においてもお客様が一番。
仕事をさせてもらう側は、常に弱い立場にあります。
気分がのらなくても笑顔を作って接客をしなければなりません。
これは、サービス業だけに限ったことではなくなっています。
市役所の窓口からレジの業務にいたるまで、自分のその時の感情を押し殺して「感じの良い接客」をしなくてはならなくなってしまいました。
労働は、適度に行えば人間を成長させ、人生を豊かにしてくれます。
ただ、多くの人はより大きな成果を上げるために無理をしてしまいます。
その無理が、心を壊し、体を壊し、結果として、成果を上げられなくなっています。
私自身も成果を上げようと感情に蓋をして、無理をしてがんばってきた経験があります。
結果は、いつも人間関係をダメにし、体も心も壊してしまいました。
一度ならず、二度もです。
頭脳労働、肉体労働、感情労働、すべてを自分の限界までやりました。
結果は、一時的なもので何も残りませんでした。
まわりを幸せにするどころか、そのストレスをぶつけてしまい、逆に不幸にしてしまったのです。
だれかのためにやったことが、逆に傷つけて不幸にしてしまう。
それなら、最初から何もやらないほうがよかったのかもしれません。
能力を過大評価している?
なぜ、人間は頑張りすぎてしまうのでしょうか?
まわりを幸せにしたいから?
自分が優越感に浸りたいから?
たくさん稼ぎたいから?
認められたいから?
私の場合は、「まわりの人間に認められたいから」という理由が一番大きかったように思います。
言い換えれば、「生きていていい理由」が欲しかったのかもしれません。
自分の実力以上にがんばれば認めてもらえるという、目に見えない、終わりのないレースを走っている気分でした。
どんなに無理をして認めてもらおうとしても、人は所詮は他人です。
人の気持ちまではコントロールできません。
自分の気持ちすらコントロールできないのですから。
だから、無理せずに自分らしく生きていくしかないのです。
その結果、誰からも相手にされず、寂しく死んでいくとしてもしかたありません。
それが、無理をしないで生きる自分の人生なのです。
「やればできる」たしかに、無理して頑張ればできるかもしれません。
でも、いつかどこかに反動が生まれ、自分を傷つけてしまいます。
自分は、それほどできる人間ではありませんでした。
やってもできない人間もいるのです。
そして、最終的にはまわりの人間を傷つけて、誰も幸せにはなれません。
私は、いつも気が付くとその繰り返しでした。
失敗の連続です。
傷を自分で広げない
人間生きていれば、人間関係で傷つけられることもあります。
たしかに、その時は心を深くえぐられるような苦しみを味わうことになるでしょう。
できれば、避けたいものです。
他人から受ける言葉の暴力やひどい扱いというのは、それだけでもかなりきついものですから。
でも、じつは、それ自体が大きなダメージにはならない場合もあります。
同じ扱いや、言葉を受けても、人によってその後の反応は異なります。
単に、気にしないというスタンスもあるでしょう。
たしかに、その瞬間は誰もが嫌な気持ちになると思います。
しかし、本当の問題は、言われたことや受けた扱いを自分の中で何度も反芻してしまうことにあるのです。
「なんで、こんなにひどい扱いを受けるのだろう。そんなに私はダメな人間なのかなぁ。」
とか、
「もっと、元気のない感じを演じていれば、同情してやさしい言葉をかけてもらえるかなぁ。」
とか、自分で自分を傷つけてしまうことのほうが、実際に受けた言葉や扱いより大きなダメージになってしまうこともあるのです。
怪我をしたら、それ以上悪化しないように消毒をして、傷口を保護しますよね。
心も同じです。
人間関係で傷つけられたら、自分で自分を治療してあげなければいけなかったのです。
自分で傷口に塩を塗り込むことはありません。
そもそも、物事に正解も不正解もありません。
宇宙規模で考えたら、ひとりの人間の言い分や立場なんて、なんの意味も持ちません。
どんなに道徳的なことを並べられようと、人間的に立派なことを言われようと、自分が傷ついて苦しいなら、そんなことに同調する必要はないのです。
平気であなたを苦しめる存在に従う必要はないのですから。
それぞれの立場があり、それぞれの人間が自分を正当化するために生きています。
たしかに、それが、人間が生きていける意味でもあります。
しかし、あなたの尊厳が無視されているなら、どんな正論も吐き捨ててやりましょう。
そんなに完璧な人間などいるのでしょうか?
他人を否定してもいい人間などいるのでしょうか?
時には、正しいことも刃になりあなたを傷つけます。
でも、その正しいことというのは、所詮は人間が自分たちに都合のいいように作ったものです。
地球を蝕む人間の存在なんて、宇宙から見たらただの害悪にすぎません。
その害悪が、自分たちの繁殖のために作ったものが、自分都合の倫理や道徳観なのです。
そんな害悪同士がお互いを傷つけ、苦しめあっているのだから、本当におろかなことです。
とにかく、何が言いたいのかというと、傷を負ったことは仕方がないけど、自分であれこれ理由をつけようとして、傷を広げないことが大切だということです。
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