人間は、疲れたときは休むのが一番というが、厳密に休むというのはどういうことなのだろうか?
睡眠がもちろん一番の休息であることは間違い無い。
ただ、その間、全く活動を止めている器官はあるのだろうか?
呼吸は続けなければ死んでしまうし、その酸素や二酸化炭素、各々の栄養素など、体中の細胞に行き渡らせなくてはいけない。
人間は生きている限り、一秒たりとも完全に活動を止める器官は無い。
しかし、私たちは睡眠を取ることで肉体的にも精神的にも回復したと感じることができる。
ただ、ここで言いたいのは睡眠のメカニズムや、細胞の再生の仕組みではない。
生きていく上で休息を取るということは、何もしない時間をたくさん取るとか、普段より多くの睡眠時間を取るということではない。
日常生活、人生においても、自分たちの体のようにそれぞれの器官が互いに互いを修復しながら活動を止めることなく、生きていくということが自然なのではないのだろうか。
つまり、健康に快活に生きていくためには、疲弊した部分に栄養を与え、修復することが大事なのだ。
そして、活動を止めない。
マラソン選手のように走りながら水分を補給するように。
仕事と休息
現代社会においては、仕事と休息は全く真逆の意味を持つ。
仕事とはその対価としてお金を稼ぐことである。
そのお金で、食べ物を買い、着るものを買い、住む場所を確保する。
つまりは、生命を維持していくのに必要なことだ。
動物はどうだろうか?
人間も動物には違いないが、その生命活動自体は大きく異なる。
餌をとり、着るものは必要ないにしても、巣を持つ動物は数多く存在する。
ただ、餌も巣も金銭の授受は介さず、自ら獲ったり作ったりしなければならない。
原始的な場合、その行為はある意味生きていくための仕事ともとれる。
しかし、動物はそれを仕事とは思わない。
その行為を休めば、明らかに生命を維持できなくなる。
『今日は、疲れたから餌を獲るのを休むか。』と、言うわけにはいかないのだ。
つまり、自然界においては、人間のように仕事と休息を明らかに分けていないのである。
一日8時間働いたら、残りは好きなことをしたり、寝たりできるというのは、今まで人間が築いてきた社会があってこそ可能になるのだ。
分割
こんな話を耳にしたことがある。
『現役で東京大学に合格できる子とできない子の違いは、勉強していない時間の過ごし方にある。』
別に、学歴だけを人生の価値基準にするつもりはないが、一つの特化した才能として例に挙げさせてもらう。
結論から言うと、前者は勉強していない時間も勉強しているのだという。
何を言っているのか混乱しそうだが、例えば、道を歩いているだけにしても、目に入る様々な情報(駅の名前や看板に書かれている英単語など)について覚えようとしたり、教科書や参考書以外の書物を読むにしても作者の意図を深くまで感じ取ろうとしたりするのだという。
友達とカードゲームをするときも、勝利までの道筋を理論的に導き出し、高確率で勝つ。
とにかく、日常生活においても頭をフルに使っているのだ。
後者はというと、おそらく大変な勉強が一段落付いたら、好きなテレビをボーと見て笑ったり、友達と他愛もない会話をしたり、あまり考える必要のないゲームをしたりしてしまうのだろう。
別に、それが人生において良いとか悪いとかいうわけではない。
ただ、目標の大学に合格するという限定的な目的には大きな障害となってしまうのだ。
まとめると、前者は人生における時間をすべて学ぶことに使っているのに対し、後者は学ぶ時間と学ばない時間を分割していまっているのだ。
じゃあ、後者も睡眠時間以外は、机に座って勉強すればいいのだろうか。
否。辛いと感じることを長い間続けられるほど人間は強くない。
短期間なら可能だとしても、学ぶことに対する認識を変えない限り、これから先の人生においても苦痛な時間が増えるだけであろう。
では、嫌いなことを好きになる努力をすればいいのか。
これも否。それより、やっていて楽しいと思えることが誰かの役に立って、仕事としていける方が良いだろう。
ただ、前途のことを参考にさせてもらうと、勉強であれば、机に座って教科書を覚える事と、日常生活で起こる事象を経験することを、同じ『学び』学びとして捉えるようになれるといいと思う。
さらに、仕事に置き換えてみれば・・・。
ここから、先はそれぞれの捉え方で良いと思う。
そうなれば、寝ている時間以外は思う存分やるべきことに集中できる。
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