ファミコン

なぜ、今から30年ほど前に発売されたファミコンはあれほど子供たちを熱中させたのか。

そして、大人たちまでも巻き込んだ社会現象になっていったのか。

また、どうしてアンチな大人も生まれてしまったのか。

元凶となったファミコンを中心にゲームの光と影について考察していきたいと思う。

 

まさにファミリー向けのコンピューター

当時、コンピュータなるものはもちろん存在していた。

しかし、インターネットは無く、本当に家で一人で何かをするしかなかったと思う。

自分の父親は当時、趣味でパソコンを所有し、何やら分厚いプログラミング関連の本を買って来ては黒い画面に文字列を打ち込み自作ゲームを作っていた。

子供の自分には何のゲームなのか見当も付かなかったが、潜水艦が魚雷を撃って戦うモノだったような記憶がある。

こんな難しいことができて、単純にすごいなぁと思ったものだった。

今、思い返してみると5インチのフロッピーディスクがなんとも懐かしい。(1.2~1.4MBだったらしい。)

家にファミコンがやって来たのは、それから暫くしてからだった。

それまでは、親戚の家や友達の家でしか遊んだことはなく、特別そんなに欲しいとは思っていなかったが、たぶん父親が自分でやりたくて買って来たのだろう。

自分でやるよりも、上手い人がやっているのを見ているほうが好きだったので、いつも親戚のお兄ちゃんか父親の横に座り眺めていたのを覚えている。

それが、当時何よりの幸せだった。

ゲームも楽しかったが、家族や友達と喋りながら、意見を言い合い、ともに考えながらクリアしていくことが何よりの喜びだった。

今改めて考えてみると、父親と一緒になって遊べたのが一番嬉しかったのだと思う。

父親とのコミュニケーションといえば、キャッチボールが代名詞のようになっているが、こんな形もあってもいいと思う。

特に、昭和の父親は厳格で、あまり子供の相手をしてくれる人ばかりではなかったので、自分の場合は、本当の意味でファミコンが家族(ファミリー)のためのコンピュータになってくれたのだ。

意外と、家族共通の話題、特に父親との共通の話題なんて子供には持てないので本当に助かっていた。

不完全な視覚情報

当時のファミコンソフトといえば、パッケージの絵こそクオリティが高かったが、皆さんもご存じの通り、実際のゲーム画面はそれは粗いドット絵だった。

初期の頃のゲームにおいては、一画面完結の物も多く、一見、自機と敵の判別がすぐにできないことも少なくなかった。

背景画も変にこだわっていてカラフル過ぎると、プレイ中でも自機を見失う事も珍しくなっかた。

最盛期から晩年に掛けては、自機を中心にスクロールするゲームが多くなって、見失うことはなくなったが、とにかく、かなりの集中力が必要とされた。

今思うと、物理挙動も制作会社によって様々だったのでまずは、まともに自機を操作するもの一苦労だった。(ジャンプ中に向きを変えたり、運動ベクトルを変えられるものあれば、ジャンプしたら最後、分かっていても奈落の底に吸い込まれるしかないゲームも少なくなかった。)

ただ、ここで考えたいのはそんなことではなく、ドット絵という視覚情報の制限に対する補完イメージについてだ。

簡単に言うと、小説を読んでいて登場人物をイメージしたり、場面を自分の過去に行った場所と重ね合わせたりすることに似ている。

もちろん、説明書には挿絵とも取れるキャラ絵が載っているのだが、ゲーム内のドット絵とあまりにもかけ離れているため、どうしても同じものとして認識できない。

それぞれが、独立したものとして存在してしまうのだ。

少なくとも自分はそうだった。

ただ、そのあまりにも少ないゲーム中の視覚情報が、逆に自分だけのイメージを膨らませてくれ、全てのイメージを与えられた時よりも自分が好きな世界観を構築できるのだ。

この効果は意外と大きい。

主人公はどんな声なのか、笑った時の表情はどんな感じなのか、歩いている時の動きはどうなのか、戦っている時はどのように剣を振るうのか、無意識の内に自分の記憶に則した世界が出来上がっていく。

もちろん、現行のゲーム全てにおいて、補完するべき不足要素が無いわけではないが、30年前よりは確実にその範囲は狭まってきている。

もし、仮に補完するべき不足要素がないゲームが完成したら、プレイヤーにとっては現実との区別がゼロになるだろう。

それは、本当にユーザーが求めていることなのだろうか。

ゲームもエンターテインメントの一つである。

エンターテインメントの最たる所以には、非現実的な体験という大事な要素がある。

リアルを求めることも重要な要素ではあるが、同時にアンリアル(非日常、非現実)な体験は薄れていくのではなかろうか。

相反する要素をどうやって一つのタイトルに収め、バランスを取っていくかということも重要な要素なのではないか。

意外と人間は、すべてを与えられることを深層心理下では拒んでいるのかもしれない。

マインクラフトというゲーム

近年では、マインクラフトなどは特にそのバランスが取れていたと思う。

言わずと知れた、世界的大ヒットを収めたタイトルだ。

国によっては、学校の教材として扱われるほどの代物だ。

3D空間に表現された世界ではあるが、リアルと呼ぶには程遠い背景や、キャラクターたちで構成されている。

ゲームシステムとしては、かなり高度な技術が使用されている。

シームレスに広がるフィールドが自動生成され、カメラ視点の移動もかなりスムーズに動く。

何よりも登場はパソコンゲームであったにもかかわらず、他の3Dゲームより必要スペックがかなり低いという利点があった。

言わば、デザイン面ではアンリアルでありながら、ゲームシステムにおいてはリアルを求めた仕様になっていたのだ。

 

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