最近、よく巷で耳にする説。
親の年収と子供の学力の相関関係。
当然と言えば、当然のことなんだろうけど、あえて、考えてみたい。
そもそも、日本は、敗戦をきっかけに、国力の立て直しと、中央に優秀な人間を集めるために東京大学を中心とした今でいう6大なる国立大学の設立に注力したとも言われている。
それまでは、農家の子供たちなんて、学校に行くぐらいなら、家の手伝いをしろと言われていた時代だ。
十年後、二十年後の子供の将来よりも、明日、食べる物の心配の方が大きかったのだ。
当然、塾なんて無かっただろうし、スイミングなんて無くても川で遊びながら泳ぎを覚えた。
しかし、いつの頃からか、親は、子供に勉強や、習い事を必死にさせるようになっていく。
子供の将来を思ってのことだ。
それだけ、生活に余裕が生まれ、一つ一つの家庭が、子供の教育にお金を掛けられるようになっていったのだろう。
そのこと自体、大変素晴らしいことだ。
国民全体が、貧しかった時代から、少なからず、教育方針に選択の余地が生じたのだ。
きっと、一昔前には、勉強をしたいのに家庭の事情で進学の道を諦めなくてはならないような優秀な人間も数多くいたことだろう。
その中には、世界を変えるような仕事を成す人間もいたかもしれない。
しかし、そんな現実が、また、繰り返されようとしているのだ。
社会は、『子供たちの未来は無限に広がっている』と建前を謳う。
生まれた時、すでに、制限された未来を隠しながら。
もちろん、先天的な才能もあろうが、それが、生かされるか否かは、親の収入にある程度依存してしまうのだ。
特に大学受験は情報戦だともいわれている。
何年も掛けて大学受験の研究をビジネスとしてやってきた予備校は、いわば、受験に必要な情報を売っているのだ。
まあまあ、高い金額。そう、ちょうど年収一千万円ほどの家計に支払える程度の金額で。
それまでに、かかる幼少期からの教育費。
小学生からの塾通い。
中学生からの高校受験のための夏期講習。
言い出せば、キリがないが、とにかく、お金はついてまわる。
資本主義経済のあるべき姿、社会の縮図、まさに鏡だ。
しかし、残念なことに、ほとんどの子供たちはこの貴重な資本主義経済の醍醐味を理解することなく大人になり、親と同じぐらいの年収を稼ぎだす。
立派な親ほど、お金の心配を子供にはさせないのだ。
そこには、ずば抜けた頭脳の優秀さは必要ない。情報戦において、多くのお金をつぎ込みそれを手にした者は、極端な話、それほど頭脳明晰でなくても、学力を身に着けられるのだ。
親の年収と子供の学力が比例するということは、そういうことなのだ。
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