問題点の再認識
現代社会においての一つの成功として、最も一般的に認識されることは経済的充足が挙げられるだろう。
もちろん、それ以外のものとして家族関係や人間関係が良好であるとか、知識的探究心の充足、身体的、精神的な健康、承認欲求の充足など挙げだしたらキリがない。
人の数だけ成功の定義が存在すると言ってもいいのかもしれないが、いつも関係してくるのは単純にお金だ。
浮世離れして、山奥にでも生活の拠点を移すのであれば話は別だが、現代社会の利便性を捨てて、仙人のような生き方を望み、実際に実現している人間を多くは知らない。
ほとんどの人間は、経済的に生活が困窮すると生活保護などの経済的支援を受けて、現代社会の経済活動にしがみつているのが実情だ。
そんな社会問題とも言える格差社会において、多くの人々が何を必要をしているのかは言うまでもないだろう。
そう、”お金”である。
みんな、お金を必要としているのである。
生活に困窮しているものから、一般的にお金持ちと言われる人たちまで、誰一人として『もうこれ以上お金はいりません。』という人間を自分は聞いたことがない。
言葉にして口には出さなくても、腹の底では常に『お金が欲しい。』と思っているのである。
では、単純にお金と呼ばれるモノ、貨幣が物理的に社会に多く存在するようになればいいのか。
日本銀行が紙幣をたくさん印刷すればいいのか。
答えは否である。
もちろん、個人レベルではより多くのお金を手に入れられるに越した事はない。
ただ、棚から牡丹餅的なことを期待していてはいつまで経っても、お金を手にするマインドには到達できないだろう。
そもそも、お金とは何なのか?
呼び方なんて、どうでも良いが紙幣、貨幣、金、マネー、要は創造した価値の保存方法なのである。
どうしても、お金というと使う方にばかり目が行きがちだが、逆の視点から言えば、自分が他人に何かしらの価値を提供したときにその見返りとして、一時的にその対価をお金というモノで代用しているにすぎないのだ。
たとえば、原始的な社会において、一人の手先の器用で力持ちの男と、もう一人の魚釣りの得意な男がいたとしよう。
手先の器用な男は自分で家を作ったり、罠を張って獲物を取ったりして生活していた。
何不自由することはなく、自分の生活の基盤を自分で構築することができた。
もう一人の男はというと、魚釣りのことに関しては右に出るものはいなかったが、家事や日常生活に関することにおいてはあまり器用にこなせるほうではなかった。
ある日、魚釣りの得意な男は海へ漁に出掛けた。
しかし、その日は天候にも恵まれず、一匹も魚を捕ることことができなかった。
その帰り道の途中、ガックリ肩を落とし歩いていると一人の男が声を掛けてきた。
器用な男 『そんなに落ち込んで、どうしたんだい?』
魚釣りの男 『いや~、今日も魚が捕れなかったんだ・・・』
器用な男 『良かったら、一緒に食べていくかい? 今日は大きなイノシシが獲れたんだ。』
魚釣りの男 『本当かい?・・・実は、何日も食べていなくて、死にそうだったんだ。助かるよ!』
器用な男 『良いってことよ。困ったときはお互い様だろ。』
そうして、魚釣りの得意な男はその晩、食事をご馳走になり、家にまで泊めてもらった。
そして、翌朝のことである。
魚釣りの男 『昨日は、本当にありがとう。何かお礼をしたいんだが、俺はこの通り、魚釣 りぐらいしか能が無い。だから、お礼は魚が獲れた時に持ってくるよ。』
器用な男 『そんな気にするなって。お礼なんてしなくていいよ。』
魚釣りの男 『いいや、それじゃあ、俺の気が済まない。あのまま何も食べなかったら、飢え死にしていたかもしれないんだ。今は、食べ物を持っていないが、その代わりにこの釣り針を渡しておくよ。もし、魚が食べたくなったらそれを持ってきてくれ。捕れたての新鮮な魚と交換させてもらうよ。』
器用な男 『そこまで言うなら、預かっておくよ。ありがとう。』
こうして、二人の男は今まで以上に親密な関係を築き、”釣り針”を今でいうお金として使用することにより価値を保存し、容易に交換できるようになった。
まだまだ、二人の話には続きがあるのだが、まず、ここまでの話で重要なことは何だろう。
もちろん、”釣り針”がお金として登場したことが重要なのだが、注目すべきは”魚釣りの得意な男”が、お礼として対価を渡したいときに、本来なら当然渡すであろう”魚”を持っていなかったということである。
”魚”なら、すぐその日に食べることもできるが、いくら”器用な男”でも、竿も糸もなく”釣り針”だけ渡されたところで、どうにか役立てることもできず、無価値なのである。
そう、そのもの自体には何の価値も無い、これが、現代の日本においての貨幣、つまり日本銀行券との共通点なのである。
『いやいや、日本銀行券ってお金のことでしょ?価値が無いはずないでしょ!?』
もちろん、お金であらゆるサービスや、物を手に入れることができます。上手く使えば、人の心さえも操れるだろう。
しかし、ここで言っているのは、”そのもの自体には何の価値も無い”ということだ。
確かに、硬貨の鋳造技術や、紙幣の印刷技術は簡単にマネできるものではなく、芸術品とも言えるぐらい精巧に作られている。
ただ、お金はそのまま食べることはできないし、空飛ぶじゅうたんのように飛び上がって、遠いところに連れて行ってくれるわけでもない。
つまり、お金をいくらたくさん持っていても、交換する相手がいなかったら、なんの価値もないのである。
使い古された言葉になってしまうが、お金自体は単に価値を保存しているだけの道具に過ぎないのだ。
では、そんなお金だから、軽視できるのか?
いや、できない。
ここまで、一般的に重要性を認識されているお金というものは他に代替が効かないのである。
しかし、大事なことは物質的なお金そのものではなくて、その中に保存されている価値に目を向けるということなのである。
その価値とは、人間が人間のために行った行動のエネルギーに他ならない。
もっといえば、お金の中には人々の善意がたくさん込められているはずなのである。
善悪の定義にまで言及してしまうと、テーマから外れてしまいそうなので別の機会に書こうと思うが、誰にとっての善にしても、間違いなく何かしらのエネルギーは保存されているのである。
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